#714『僕は猟師になった』

この春の自粛期間を経て、しばらく映画館に出かけていないという人も少なくないのではないでしょうか。映画館の空調のよさなど、安全性も徐々に知られ、少しずつ映画館に人が戻ってきている昨今。こちらのサイトでも、新作映画のご紹介を再開したいと思います。

今回の映画は『僕は猟師になった』。そう聞いて、同じタイトルの書籍を思い出した方もいるかもしれません。2008年に出版されたこちらの本は、わたしの周りでも当時、随分と話題になりました。著者は千松信也さん。京都大学を卒業して「猟師になった」ご本人です。映画は、そんな千松さんとご家族の日常を追います。

冒頭から自分の話で何ですが、大学でモンゴル語を専攻していたことから、モンゴルの大草原で生活していたことがあります。

家畜の山羊をいただく時、それまで気さくだった一家が、日本から来た私たちにその過程を見せるべきなのか、とても真剣な顔で話し合っていました。「これは見せものではないから……」と。

山羊の最期を苦しませないこと、皮も骨もどこも無駄にしないこと――。さっきまで歩いていた山羊をいただいて、食べるというのは、「命」をいただくことなのだと実感した出来事でした。

ただ、「狩り」というのは、深く感謝して家畜をいただくこととは、だいぶ違う印象を受けます。猟を目にしたのは、この映画が初めてでした。ショックでした。罠に掛かった猪や鹿の苦しそうな声――。

私たちは時にネイチャー番組などで肉食獣が草食獣を捕える瞬間を目にすることがあります。野生の厳しさを思い知らされる瞬間です。

千松さんの狩りの様子を見ていて感じたのは、狩りをするというのは、この野生動物たちの「弱肉強食のヒエラルキー」に人間もいきもののひとつとして参加する行為なのだということ。

そして、きっと千松さんもそう思っているのだろう、と感じたのが、彼が大けがをした時の場面。

大けがをした千松さんは、医師から手術を勧められます。けれど、千松さんは「野生動物も怪我は自然に治すのに、自分だけ手術して治すというのも……」みたいなことを言うのです。「こうしてギプスをしているだけで有利なのに」と。

食べる側と食べられる側の、言ってみれば、闘うライバルに向ける敬意と不思議な愛情のようなものが感じられる瞬間。狩りをして、食べるということは――。

 

 

千松さんは、いいことを言おうとするでもなく、淡々と17年続けてきたという猟師の営みをしている。けれど、そこには自然の一部であることを忘れていない人間の、祈りのようなものが映っているような気がします。今、この映画が公開されたことに、何か意味があるように思えるのは、私だけでしょうか――。

8月22日より公開中。

公式サイト:https://www.magichour.co.jp/ryoushi/

(文:多賀谷浩子)