皆さんは、カミラ・アンディニという映画監督をご存じですか?
1986年生まれの彼女は、インドネシア映画界を牽引してきたガリン・ヌグロホ監督の娘さん。デビュー作『鏡は嘘をつかない』(11)が東京国際映画祭でも注目され、第2作『見えるもの、見えざるもの』は2年前の東京フィルメックスで最優秀作品賞に輝きました。
そんなカミラ監督が先月、来日しました。東南アジアのパワフルな名匠たちの作品を集めた特集上映<響きあうアジア 2019「東南アジア映画の巨匠たち」>で『見えるもの、見えざるもの』が上映されたのです。
こちらの映画は残念ながら日本でまだ配給されていませんが、インドネシアならではの表現で、病の弟を案じる主人公の心のありようをみずみずしく描いています。以前からお話を伺ってみたかったカミラ監督にインタビューさせていただきました。
―『見えるもの、見えざるもの』、素敵な映画でした。豊かな自然と人間の共存が描かれていますが、それをこんな風に描けるなんて……と思いました。
デビュー作『鏡は嘘をつかない』もそうでしたが、映画を作るにあたって、自分がどういう人間なのかを掘り下げたんですね。私はアジア人であり、インドネシアで生まれ育った人間でもある。そういう私が日々何を感じ、どんなことを考えて世界とつながっているか。そこを掘り下げていくことで、できあがった作品です。
―監督はジャカルタ生まれですが、この映画にはバリ独特の文化や風土が反映されています。
バリ独特の哲学で、人生の中には見えるものと見えないものがあって、あらゆるものに良い面と悪い面がある。片方だけということはなく、すべてが同調したハーモニーだ……という考え方があるんです。それを描いています。
―まさに『見えるもの、見えざるもの』ですね。
そうなんです。自分がどういう人間であるかを考えた時に、この哲学が私の中心だと思いました。バリ以外にも通じる考え方ですが、(「現実」と「超自然的な非現実」が日常的に共存しているといわれる)バリでは、特に日々の生活の中に、この考え方が浸透しているんです。特に女性は、この二面性を持っていると感じます。女性であるけれど母親でもあるというように。怒っている時でも、女性は優しく対応することが求められたりしますし。この映画では、その両面を広げながら描いていきました。
―主人公の女の子タントリは、重い病で目覚めない弟を想いながら、夜ごと彼の病室や大自然の中で舞を捧げます。それは現実なのか幻想なのか――その両面が境目なく行き交う感じが美しかったです。
私たちの日々に暗闇があったとしても、どうしたら明るさを見出すことができるのか――その両面がハーモニーになっています。映画というメディアは現実をとらえて映画として映し出すものですが、リアリズムと現実って何なのだろうといつも考えるんです。バリでは日々の現実の中で、非現実的な(超自然的な)ことが起こるので。合理的に説明がつく話ではありませんが、皆がそれを信じているんです。
―タントリが弟の病室を訪れた時、弟がバリの人形劇を披露したり、タントリが眠る弟の周りで伝統的なメイクをして舞う場面もあって、その土地伝統の芸能が子どもたちの遊びに浸透しているのがいいなと思いました。日本はどちらかというと、伝統芸能と日常生活が分断しているように感じます。
バリは舞踏でも人形劇でも音楽でも他の分野でも、自分たちの文化を守っているんです。毎日の生活の中にそれが生きている土地だと思います。
―タントリは弟の病が治りますようにという祈りをこめて踊ります。劇中のお母さんの歌もそうですよね。歌や踊りというのは本来こういうものなんだと改めて感じました。
インドネシア、特にバリでは、芸術表現そのものが祈りなんです。儀式の一部だし、絵を描くことによって祈る、踊りを踊ることで祈る、私は映画を作ることで祈りを捧げています。
―カミラ監督は、お父様がインドネシアを代表する映画監督ですし、幼い頃から映画に触れてこられたと思うのですが、ご自分で映画を撮り始めたのは?
私が生まれた1980年代、インドネシアでは政府のプロパガンダ映画が上映されていて、その中で唯一、それ以外の映画を撮っていたのが父なんです。ちょうど私が中学から高校に行く頃、国の体制が変わって、デジタルカメラがありましたから、学生の人たちも皆、自分たちで映画を撮り始めていたんです。インディーズの短編映画祭も流行っていたりして。
―そうだったんですね。
でも、そういう状況の中で、私は映画のことも映画作りについてもよく知らなくて。父の環境で生まれて、映画の中で暮らしてきただけに、それが余計に恥ずかしかったんです。だから、父に敬意を示すつもりで、映画作りを学びはじめました。そうしたら止まらなくなって今に至っています。
―オーストラリアに留学されたのは?
家から離れて暮らしてみたかったんです。本当はアメリカに行きたかったんだけど、「遠い」と父に反対されて(笑)。オーストラリアの方がインドネシアから近いから、オーストラリアを選びました。そこでは社会学を学びました。社会学は面白いんです。人間や社会の学問ですから。
―映画を学んだわけではないんですね。
そうです。映画界に入るなら、ずっとやり続ける覚悟がなければいけないと思っていました。父の名前も私の肩にかかってきますし。留学した時は、まだそう決める前だったんです。映画監督を一生の仕事としてやるかということは本当に慎重に決めました。
―覚悟が決まったのは、いつ頃なんですか?
メルボルンにいた時、映画祭で初めてアジアのいろいろな映画を観たんです。インドネシアで観られるのは基本的にハリウッド映画が多いので。それから、メルボルン滞在中にアジア映画を観るようになりました。
―どんな映画を?
アピチャッポンを初めて観た時は、「これはどういう映画なの!どうやったら楽しめるの?」ってびっくりして、父に電話したんです(笑)。父は笑っていましたけど。「考えなくていいんだよ、感じればいいんだよ」って。
―タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督ですね。それまでハリウッド映画をご覧になっていたら、まったく違う感覚の映画ですね。
そうなんです。それまではハリウッドやヨーロッパの映画を観てきましたから。取り憑かれたようにアジアの映画を観るようになって、こういう風に自由に映画を作れるんだと思ったんです。
―たしかにカミラ監督の作品の豊かさは、ハリウッド映画よりアピチャッポン作品の方にずっと近いものを感じます。
そうですね。日本の監督の映画も観ましたよ。いろいろな国の映画を観るようになって、自分と近いものを感じて。映画の技術的なことより、表現者として自分の核をこういう形で表現できるんだなということがわかったんです。
―ある程度、大人になってから、そうやってあらゆる映画に触れると、感覚が開くところがあるように思います。カミラ監督は、その前にヌグロホ監督と過ごした豊かな時間がベースになっているのでしょうけれど。
そうですね。父の作った映画を観ながら、父の考え方に触れながら育ってきているので。いろいろな映画や音楽を聴かせてもらいながら。でも、子どもの頃は、そういうことは意識していないんですけどね。空気と一緒で毎日あるものだから。
―どんなお父様ですか?
(にっこり笑って)本当にいろいろな面がありますが……本当にずっと働いているし、真のクリエイターだと思います。あと、聞くと何でも答えてくれる。歩く図書館みたいな人です。
―ヌグロホ監督は無印良品のファンだそうですね。
そうなんですよ(笑)。今回の来日で、ずっと取材が入っていたので、「なかなか無印に行けない」ってずっと言っていました。銀座にできた大きなお店にやっと行けて、すごくリフレッシュになったみたいです。
―最後に伺いたいのですが、劇中でタントリが弟の病室に犬を連れていって、中に放つシーンがありましたよね。でも、映画では入口だけを映して中は見せません。それによって私たちは中の様子を想像できるわけです。この映画のタイトルは『見えるもの、見えざるもの』ですが、この映画をはじめ、監督は映画の中でも見せるものと見せないものを大事にされているのを感じます。
そうですね。そこは映画を撮りながら、自分自身に問いかけている部分です。直接は見せないけれど、音や声だけで伝わることもあれば、何かはわからないけれど、後からわかるものもありますし。映画をご覧になった人の中には、バリの文化的な場面がわからないから、映画の中にもっと説明を入れた方がいいという意見もあるんです。
―でも、その説明のなさが、いいと思います。
映画とどうつながるかは人それぞれなので、この映画をご覧になって、すぐにわかる人がいても、1年後にわかる人がいても、私はどちらでもいいと思っています。そうやって映画がそれぞれの人に届くことを私も信じています。
(取材・文:多賀谷浩子)
響きあうアジア―2019「東南アジア映画の巨匠たち」
公式サイト:https://jfac.jp/culture/events/e-asia2019-masters-of-southeast-asian-cinema/