9月15日(金)から公開されている『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』。同じ日にアルノー・デプレシャン監督の記者会見が行われました。
6年ぶりの来日を喜ぶ人たちが集まり、温かな雰囲気で行われた1時間の会見の模様。余すところなく、お伝えします。
「また日本に来ることができて、とても感動しています。今回は日本のいろいろな場所に滞在できると聞いています。これまで6~7回来日していますが、いつも東京だったので。
最初の来日は、ぴあフィルムフェスティバルで『魂を救え!』(92)の時だったと思います。その時のことを今でもよく覚えています。
その後も来日を重ね、今回はムヴィオラという我々、映画監督にとっては特別な意味を持つ会社に私の映画を配給していただけて、とてもうれしく思っています」
監督のお話にもありましたが、今回は東京で9月15・16日に監督のトークが行われた後、18日には名古屋と大阪で、20日には京都で監督のトーク・ツアーが行われます。
そして、今、監督のレトロスペクティヴも開催中。それについて、フランス大使館の方からお話があり、その通訳はアンスティトゥ・フランセの映画プログラムをご担当されている坂本安美さんだったのですが、それを受けて、監督が一言。
「私が来日した時の大切な思い出をひとつ、ふたつ、お話したいと思います。メトロの近くに小さなカフェがありまして、坂本安美さんとお茶を飲んだこと、よく覚えています。『エスタ―・カーン めざめの時』(20)の上映時に、青山真治監督と語り合ったのもいい思い出です」
そんな温かなお話から、質疑応答がスタートしました。まず、最初の質問。
『私の大嫌いな弟へ』は08年の『クリスマス・ストーリー』にも描かれたヴィヤール家を舞台にしています。そこで、この15年の間の変化について。
「おっしゃるように『クリスマス~』と今回の『私の大嫌いな~』は似ているところがあります。振り返れば、『クリスマス~』は脱線がとても多い作品でした。脱線の積み重ね、エピソードの積み重ねで、ひとつの物語が語れます。
それに対し、今回はひとつのテーマを集中して描こうと思いました。姉の弟への積年の憎しみ、恐怖、怒り。そういうことだけを描こうと。エピソードの連なりによる『クリスマス・ストーリー』に比べ、今回はひとつのゴールに向け、すべての出来事が集約していきます」
そして、『クリスマス~』の印象的なラスト・シーンのお話に続きます。
「『クリスマス~』のラスト・シーンを皆さん、覚えていらっしゃるでしょうか。アンヌ・コンシニが演じていた『姉』がひとりでもの思いに耽っているカットです。ラストまで来て、他の家族は悲しみから解放されているのに、彼女だけが悲しみを宿しながら、映画を終えました。
ですから、今回の『私の大嫌いな~』は『姉』のアリスを悲しみから解放させてあげたいと思いました。今回、アリスを演じたマリオン・コティヤールと私で、どうすれば彼女を解放させてあげられるだろう、彼女の悲しみを修復することができるだろうと話し合いました」
最初の質問に答えた後、「長くて心配されたでしょう。この後はもっと短くお話します(笑)」と会場の空気を柔らかにしたデプレシャン監督。質問した人に体を向け、その人と目を合わせながら答える様子からも、お人柄が伝わってきます。
次の質問は、脚本のこと。撮影前に綿密に脚本を書きあげると言われるデプレシャン監督ですが、事前にキャストが脚本作りに関わる「余白」はあるのでしょうか。
「おっしゃるとおり、私は脚本を非常に綿密に書き込みます。その方が、俳優がより自由になると思うからです。他者に書かれたテキストの方が、より自由になれる気がします。
演劇の読み合わせは、キャスト全員で行いますが、私の映画では、俳優ひとりずつと私が読み合わせを行います。その時の会話によって、私が脚本を直したり、そういう形で進めていきます。
俳優によってアプローチのしかたが違います。メルヴィル・プポーは、書かれた台詞を「,」ひとつに至るまで尊重します。今回も長い独白のシーンがありますね。甥っ子に激しい怒りをぶつける場面ですが、あのような長い台詞でも彼は一字一句、台詞を変えません。
一方、マリオン・コティヤールは、少し違います。『アリスはなぜ弟を憎んでいるのかしら?』と私と話しながら、「もしかしたら、彼のことが怖いんじゃない?」とアリスのことを理解しようとします。その話し合いの過程で、台詞も考えていきます。
マリオンの場合、それはアリスの心を探求する作業なのでしょう。長い時間の中で、アリスはもう、なぜ弟を憎んでいるのかも、わからなくなっています。だからこそ、マリオンがアリスに代わって探求していくのです。メルヴィルとマリオン、それぞれに色合いの異なるコラボレーションですね。
そんなマリオンとメルヴィル、二人との撮影について伺うと、
「映画の脚本を書く時は、できるだけ宛書をしないよう、自分に言い聞かせています。登場人物は複雑であればあるほど、キャラクターが興味深いものになると信じているので、生きている役者のことは、脚本を書く際には思い浮かべないようにしているのです。
そうは云っても、この世を去った役者については、ジェームス・スチュワートやイングリッド・バーグマンを思い浮かべることはできます。迷信ではないですが、自分の中にそういうちょっとした決め事があるわけです。
今回の姉・アリスですが、誰がこの役を演じられるだろうと思った時に、マリオンのことが思い浮かびました。ご存知のとおり、マリオンは様々な役を演じてきた俳優です。けれど、映画の中で子供のような無垢さ、素朴さを持って存在できるのです。
だから、彼女がどう演じても、私は許すことができる。彼女に何か、さらなる感情を演出したりすることはありません。そう思わせてくれる人なのです。
自分の演じる人物に、子供の純粋さをもたらすことができる。今回のアリスは客観的に見れば、ひとりの小さな女の子がバカなことをやっている、そういうキャラクターですよね。彼女の持ち味を生かすことができるということで、彼女にやってもらいました。
メルヴィルのことは、昔からよく知っています。『クリスマス~』にも端役ではありますが、出演してもらいました。彼のデビュー作はロメールの『夏物語』(96)ですよね。エリック・ロメール監督の作品の中でも傑作ですし、フランス映画の中でもベスト10に入るような作品です。
あの作品の彼の存在感はすばらしかった。若々しさと生意気さが共存していて、こういう息子がいたら、こういう彼がいたら、という人物を体現していました。そんな彼が年齢を重ねるにつれ、深みを増してきたのです。彼を起用している他の監督にジェラシーを感じるほどに。
演劇的な側面を持つ役を彼に演じさせたいと思っていました。今回、彼が演じた弟のルイは、酒浸りで不作法で、ひどい言葉を吐くし、絶望していて突拍子もない行動をとる、そんな人物です。今の深みがあるから、この役を彼にオファーすることができて、私は誇りに思っています。
次は「ベルイマンを彷彿とさせるような顔のクローズアップが強い印象を残しました」というクローズアップについての質問です。
「子供の頃、映画を観た時に感動したのは、自分の顔より大きな顔が、目の前の大きなスクリーンに登場していることです。大きな顔がまるで風景のように見えてくるのですね。写真展だと、たいていが自分より小さな顔ですよね。けれど映画は、自分の顔よりずっと大きいわけです。
ベルイマンは私にとって一番の師匠と言ってもいいぐらい、1日中ずっと彼のことを考えていられる師匠のひとりです。彼から何を教わったかといえば、どんなに悲しい、苦々しい感情でも、あるいは怒りやジェラシーでも、ベルイマンの映画の登場人物たちは、臆せず表現する勇気を持っているということ。それが美しい感情でなかったとしてもです。
そんなことは問題ではないのだとベルイマンは言います。悲しい表情をしているからといって、それが心の奥の本心だとは言えない。その人物の真相はもっと深いところにある。その一部が表れているに過ぎない。人間というのは、もっと複雑なもの。だから、美しくない感情があれば、どこかに気高い感情を持っている。その二つの感情は共存することができるのだと。ベルイマンの映画は、今でも私にそう教えてくれます」
ここで、会見のはじめに聞かれた青山監督の思い出について。
「まず、映画監督としての青山真治監督についてお話します。彼には美しいものに対するアペタイトがありました。『ユリイカ』は何も足すところのない、引くところもない完璧な傑作だと思います。先ほど、クローズアップの話がありましたが、美しさに酔いしれる、そういうところのある監督だったと思います。
そして、人間としての青山真治さんのこと。私は幸運にも、ひとりの人間としての青山さんを知ることができました。唯一行ったことのあるカラオケは彼とのものでした。酔っぱらった彼は、ちょっとクレイジーな感じで(笑)、人生を貪るような力強い側面を私に教えてくれました。映画の中でも勇気を出してやるのだという、そういう態度を映画監督としても、人としても、私は教わりました。
その両面を考えると、青山真治監督の中に矛盾したものが共存しているんです。とても人見知りで、人に慣れないというか、そういった部分と、とても穏やかな部分、その両面が共存していることに常に驚かされていました。美しいものへの恋心を持ちながら、ロックな側面も持ち続けていました。そういうところに、とても魅了されていました」
次は「これまでの作品を振り返って、30年間、大きく変わられたことはありますか?」という質問。91年の短編『二十歳の死』もレトロスペクティブで上映されますが、それから数えると、32年の月日が経っていることに、少し驚かされます。目の前のデプレシャン監督の印象は、変わらないままなので。「大きな質問ですね」と戸惑いながら、こんなお話が聞かれました。
「芸術において進歩というものはないと私は思います。絵画でいうなら、ラスコーの壁画から何ひとつ進歩していないと。けれど私自身は、少しずつ進歩しようと毎日心がけています。
ひとつ例を挙げますと、フレームの作り方ですね。20歳の時にはできなかったカットを撮ることがきるようになった、というのはあります。
今までは、カットの中にひとりの人物を捉えたとしても、どこかにもうひとりの人物の一部が映り込んでいる、そういう捉え方をしてきました。今回はひとつ、そういうことをしなかった場面があります。
それは「人生を修復するのは難しい。でも、映画が修復することはできる」ということを体現したシーンです。アリスがルイをカフェに呼び出すのですが、カメラはアリスの肩のところにあります。メルヴィルを通してマリオンを撮るのでなく、初めてマリオンそのものを撮ったのです。
そして彼女は一言「パードン」と言います。その一言で、奇跡が起こるのです。人生はその一言では解決しないかもしれません。でも、映画の中では、それができるのです。そのシーンの中で、私はようやく誰かの肩越しだとか、そうではないカットを撮ることができました。映画の力ですね」
最後は、今回の映画の涙のシーンについて。『ルーベ、嘆きの光』(19)の最後にレア・セドゥが涙を流すシーンがありますが、監督が上映時のトークで「涙が遅れてやってきて、ようやく彼女は涙を流すことができた」とお話されたそう。映画の中の涙を流すという行為について。
「涙は修復する、ですね。特に映画の中の女性には、それを感じます。男性の涙は、愚かしく、だからこそ彼らを愛するのですが。女性が映画の中で悲劇的な体験をし、涙を流す時、彼女たちはノーブルなものに到達すると思っています。メロドラマでも、コメディでもそうです。イングリッド・バーグマンも、クローデット・コルベールも。女性たちが映画の中で涙を流す時、王女の地位に昇格するのだと思います。
今回のラストはアフリカで撮影しました。マリオン・コティヤールと撮影監督のイリーナ・リュプチャンスキと少人数で。最後はマリオンのモノローグですね。一応、撮ってはみたのですが、想定しなかったことをやってみようとイリーナに頼んだのです。「カメラを固定でなくて手持ちでやってみて。このベッドに座ってみて」。そのベッドにはマリオンが座っているのです。「君の好きなようにやって」と二人に任せました。すると、マリオンが用意されていた台詞を語りながら、一粒、ニ粒と涙を流しました。でも、それが奇跡ではないのです。私にとっての軌跡は、二粒の涙を流したあとに微笑んだ、それをイリーナの目の前でカメラ目線でやってのけた素晴らしさ、私は満足して、これでフランスに帰ろうと言いました」
素敵なエピソードが聞けたところで、監督へのサプライズ。メルヴィル・プポーからの動画メッセージが上映されました。壁一面の本棚の前で、白いTシャツ姿のメルヴィルが、東京にいる監督に向け、「日本は僕にとって、思い出のバーで、最初に監督と親交を深めた場所でもあります」。
それを受けて監督が「よく覚えています。あのバーにメルヴィルと一緒にいたことを昨日のことのように思い出します。あんなに酔っぱらった人間をみたのは初めてでした。わたしがホテルまで彼を連れて帰りました(笑)」。
笑いに包まれ、会見はお開きとなりましたが、リポートの最後に、監督のお話の中で何度も聞かれた「人生を修復する」「悲しみを修復する」という言葉について。
実は最初の質問と一緒に聞かれた質問なのですが、今回のトーク・ツアーのチラシにも書かれているデプレシャン監督の「映画は人生を修復する」という言葉についてのお話で、リポートを締め括りたいと思います。
「人生には、そう簡単に修復できないことも起こりえます。けれど、私は映画には、それを修復する力があると思っています。実生活の私たちは、とても不器用です。けれど、映画を観ることが、うまく修復できないこと、修復できずにいることの何かの手がかりや助けになるのではないか。そう考えているのです。
もしかしたら、それは幻想かもしれません。私たちは失敗を繰り返し、修復できないまま、それを繰り返し続けるのかもしれない。けれど、映画というものはひとつの出口、突破口のようなものを提示してくれるものだと思うのです。
私が好きなアメリカの哲学者で、スタンリー・カーベルという人がいます。彼は『映画は私たち人間をより良くしてくれる』と云う。私も同じように思っています」
『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』公開中です。
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