みなさんは『十牛図』をご存知ですか?
書かれたのは中国、宋の時代と云いますから、今から1500年ほど前。そう考えると果てしない気持ちになりますが、
人間が悟りに至るまでの道程を、人間の牛との関係になぞらえ、十の段階で「絵」と「短い言葉」で表した禅宗の図。
とても深い内容が、今の時代で云うイラスト的な感覚で描かれているようにも見え、興味深いのですが、こちらの「十牛図」を映画で表したらどうなるのか。
そんな壮大な思いつきを実現してしまったのが、若干29歳で発表した『祖谷物語 -おくのひと-』で注目された蔦哲一朗監督。
こうした、いわゆるアート映画は資金集めが非常に難しく、それは文化への助成金が韓国やフランスに比べて少ない日本の現在の課題でもあるのですが(それについては、こちらの記事も)。本作も公開までに約10年を要したそうです。
そんな映画『黒の牛』が今月23日から公開されます。

今となってはフィルム撮影自体が貴重ですが、全編がフィルムで撮影され、⻑編劇映画としては⽇本初となる70mmフィルムも終盤の大事なシーンで使われている繊細かつ壮大なモノクロームの映像世界。
ほぼセリフのない映画ですが、その分、映像が饒舌。映画に身を委ねていると、いろいろな考えが浮上してくる、まさに「禅」的な作品です。その中心で、牛とともに黙々と田を耕しつづけるのが、ツァイ・ミンリャン監督の作品に欠かせない俳優リー・カンション。何も言わない彼から伝わってくるものが圧倒的です。
そして生前、こちらの作品への参加を表明していた坂本龍一さんの楽曲が流れ、監督の前作『祖谷物語 -おくのひと-』も印象深い田中泯さんが僧侶役で出演しています。
静かに力強く大自然と人間の霊性を伝える本作の公開を控え、昨年12月14日に墨田区の牛嶋神社にて、田中泯さんの場踊りと、蔦哲一朗監督、リー・カンションさん、そして泯さんのトークイベントが開催されました。

当日は雨模様でしたが、泯さんの場踊りが始まる頃、雨は小降りになり、微かな陽の光が……。これについてはリーさんも「雨が止んで、光が射してきましたよね。すごいイベントだなと思いました」
これまで幾度となく場踊りを踊ってこられた田中泯さんですが、この日が特別だったのは、なんと映画にも出演している雌牛の「ふくよ」との共演だったこと。まさしく即興!
泯さんご自身、「ふくよが来ることは知っていましたが、まさか一緒に踊れるとは思っていませんでした」。
途中、盛大な黄色いおしっこをして、命の躍動を感じさせた「ふくよ」さん。なんと食肉にされる牛さんだったらしく、「映画が終わってお別れして、本当なら彼女は食べられてしまうところでしたが、東北に行って農業をすることになり、さらには子どもを2頭も産んだそうです。幸せなやつだなと思いました」と微笑む泯さん。

当然ながら、イベントの進行など気にしないふくよさんを交えた場踊りは、静かながら、なんともエキサイティング。場から受ける反応のみでピュアに踊る泯さんの表情は、余計なものを纏わず、まるで菩薩様のようでしたが、場踊りの一環で泯さんが地面に倒れ込んだ時、寄り添うように近づいたふくよさんの目は慈愛に満ちていて、その場にいたお客さんの感動を呼びました。
馬踊りが終わった時、手こずらされたふくよさんを「こいつ」という感じで愛情たっぷりにポンと叩く泯さん。会場からは、温かな笑いが。神社の境内が大きな拍手で包まれました。

そして、トークイベントがスタート。司会は、本作のプロデューサーであり、以前は東京フィルメックスの、そして現在は東京国際映画祭のディレクターでもある市山尚三さんです。
蔦監督と泯さんは、監督の前作『祖谷物語 -おくのひと-』からのお付き合い。歳の開いた泯さんとのタッグですが、そこには年齢を超えた、ものを作る人同士の真剣なやり取りと信頼が感じられます。
「蔦監督は、これまでにないことを要求されるので、覚悟がいりますね(笑)。全体的に台詞が少ない映画なのですが、夢中になれる時間がずっと続いている、非常に思い出深い撮影でした」
お隣りに座っているリーさんに関して泯さんは、
「映画の中で、リーさんはまったく話さないのです。だから、今日は話すリーさんがすごく楽しみなんです(笑)」とユーモアたっぷり。
そして、こう続けます。
「本当に素晴らしい俳優さんで、驚きました。何にもしゃべらないのに、映画を引っ張っていく。こんな映画は、皆さん観たことないと思います」
そう言われたリーさんは「今日は泯さんの素晴らしいダンスを見せていただいて」と触れたあとに、「『黒の牛』は蔦監督が全編をフィルムで撮影された、今の時代に貴重なアートフィルム。多くの人がせわしなく動いている今の世の中ですが、『黒の牛』をご覧になって、心を落ち着けて、静かな日々を送っていただけたら嬉しく思います」

そもそも、リーさんが本作に出演した経緯は、
「蔦監督が以前撮られた作品を拝見したら、すばらしかったのです。フィルムで撮影したモノクロームの美しい映像で。今回もモノクロームのフィルム撮影ということで、その勇気に心を動かされました。しかも私の出演オファーで2回も台湾に来てくださったんです」
その場には、ツァイ・ミンリャン監督も同席して、出演を勧めてくれたそう。「長年のお付き合いの市山さん(ツァイ・ミンリャン作品は東京フィルメックスで上映され続けています)も推薦してくださって、出演することにしました」
しかしながら、ふくよさんとの撮影は予想外の連続だったようです。
「コロナの時期だったので、日本に来ても何度も隔離があり、それが終わってようやく撮影に入れましたが、撮影に入ったら入ったで、今度は牛との格闘でした(笑)」
けれど、徐々に波長の合っていく牛と人。
「最初の頃はやはり、ふくよはふくよで、やりたいようにやるわけです。けれど、徐々に私の言うことを聞いてくれるようになって、ついには、うまい具合に一緒に演技ができるようになりました。撮影中ずっと、私と一緒に田んぼを耕してくれました」

そんなリーさんとの撮影を泯さんはこう語ります。それは、この映画を言いえたような言葉でした。
「言葉でわからないことが、わかったというのが正直なところです。リーさんは本当に素敵な方です。どういったらいいのかな。会話がなくとも分かっている。彼の一挙手一投足にとても納得がいくというか。言葉で指示するとか、されるとか、僕らの日常はとかく言葉で伝えようとしがちですが、こちらの撮影現場では言葉にする以前の、より自然に近い状態の中で事が進んでいく。それは本当に素敵な現場でした」
それに対して、リーさんも
「泯さんが先ほどお話されたように、言葉の問題は全くありませんでした。僕は長回し(カメラを一箇所にさだめ、そのまま長時間回したままの撮影)のシーンを長時間、一人で演じることが多かったので、フィルム十数巻分(!)、カメラを回しっぱなしで演じきるわけですが、泯さんは普段からダンスでおひとりでそれをされているので、そこのところをよく分かってくれていた気がします」
言葉を超えた交流です。
「僕自身、泯さんとご一緒させていただいて、ダンスというものがどういうことなのか、わかったような気がしました。言葉じゃなくても分かり合えた。そんな瞬間をたくさん過ごさせていただきました。ただですね、私と泯さんの年齢を合わせると120歳。その二人が田んぼで牛と格闘しなくてはいけないのは大変でした(笑)」
すると横から、蔦監督が
「ふくよが3歳なので、123歳です(笑)」

そろそろイベントもお開きに。蔦監督はこちらの作品の上映で各国の映画祭を回られたそうで、その話になりました。
「最近だと、イタリアのトリノ映画祭に11月末におじゃましてきましたが、アート映画に理解のある方が多くて、暖かく迎えていただいて。昨日見たよって、街中で話しかけていただいて、そういう経験も初めででした。香港映画祭ではグランプリをいただきましたが、余白の多い映画なので、人によって受け止め方が違うのかなと思います。僕自身はアート映画というつもりで撮ってはいないのですが、そういう認識をされているのかなと思います」
すると、泯さんが
「今、蔦監督が街中で話しかけられたと言っていたのは、映画館で観たからだと思うんです。(蔦監督に)上映の際に舞台挨拶をしたのでしょう?(監督が「そうです」)そうすると、『観たよ』って声をかけたくなるのです。映画を作った人にまで心が動くのが、映画館で映画を観るということ。
テレビで観ると、観た人の自分のものですから、勝手に途中で止めたりもできる。でも、映画館はみんなと一緒に観る場所。映画なんて共同性が無くなったら作れないものですから、ぜひ映画館で『黒の牛』を見ていただきたいと思います」
そして、音楽の坂本龍一さんの話に。
「坂本龍一は(音楽として参加することを)「OK」と言ってくれたんだよね(と監督に。監督が「はい」)。でもこの映画が出来上がった時は亡くなってしまっていた。坂本龍一との約束というか、彼の追悼も込めて出たというか……」
印象的な舞台「TIME」でも組まれたお二人。その言葉が静かに響きます。続けて監督が「映画を撮り終えたひと月後に亡くなられたのです」
そして「最後に皆さんに」とマイクを向けられた監督は
「オリジナル脚本の映画ですから、動き始めた頃は、映画に賛同して出資していただける方を探すのがすごく大変でしたが、リーさん、泯さん、そして坂本龍一さんのお力があって、なんとか完成できたようなものだと思います。
完成するまで8年かかって、公開まで10年、僕の30代を全て捧げて作った映画だと思いますので、ぜひ劇場で見ていただけたら。映画館で見ないと意味がない映画かなと僕自身も思いますので。
フィルムで撮ることもそうですけれど、僕自身、こだわり抜いて、自分の描きたいことを10年ずっと考えて作った映画なので、最初はこういう映画が好きな人に届けばいいんだという思いもあったのですけれど、公開が近づくにつれて、やっぱり映画は多くの人に届いてなんぼだなと思ってきています。映画が成功するために、みなさんのお力を貸していただきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。ありがとうございました」
そこへ泯さん
「踊りを見ていただいたお礼を言うのを忘れました。ありがとうございました。あの、踊りは配信ができないです。フィルム映画ですので、ぜひ劇場で観てもらいたいです」と監督をアシスト。
そして、リーさんも
「この映画はぜひ皆さんに観ていただきたい映画です。すばらしいアーティストの田中泯さんが出演されて、坂本龍一さんの音楽も流れ、あとは僕自身も出演しています(笑)。23日公開なので、ぜひ映画館でご覧いただきたいです」とまたもやユーモアをまじえてアシスト。
公開まで日がある中、こうしたイベントにも来日してくださる出演俳優さんは貴重。蔦監督を応援する気持ちと、長年のお付き合いである市山さんへの思いを感じます。リーさん、そういうところも素敵な俳優さんです。
牛島神社では、映画とは別編集の特別バージョンが襖絵として公開されています。こちらもかっこよく、このためだけに出かけていく価値アリ。近くの公園を通って神社へ行く道のりは、絶好の散歩コースです。ぜひお出かけください。
ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿K`sシネマ他 全国順次公開
公式サイト:https://alfazbetmovie.com/kuronoushi/
1100年の歴史ある牛嶋神社(東京都墨田区向島1-4-5)での特別展覧については
https://alfazbetmovie.com/kuronoushi/installation/
©NIKO NIKO FILM / MOOLIN FILMS / CINEMA INUTILE / CINERIC CREATIVE / FOURIER FILMS
配給:alfazbet、ニコニコフィルム、ムーリンプロダクション
取材・文:多賀谷浩子
